興行収入124億『美女と野獣』の予告編の作り手による制作秘話
「ガル・エンタープライズ」演出部ディレクター浅木裕佳子さんにお聞きしました。
――当時のエピソードを伺ってもよろしいですか?
『シンデレラ』(2015)からの流れで『美女と野獣』(2017)の予告篇も担当させてもらえることになり、すごく嬉しかったのですが……最初の打ち合わせで「国内の最終興行収入100億を目指します!」と、とんでもない目標を聞くことに。
目標設定で滅多に聞く数字ではないので何度か聞き直しました(笑)。
――100億円ですか!?
数字だけだとピンとこないかもしれませんが、当時国内で100億を超えた作品は歴代で30作ないくらいでした。
ちなみに『シンデレラ』は最終で52億、通常は20億いけばヒットと言われる感じです。
これはただ事ではない、と改めて気合いが入ったことを覚えています。
――予告編で特に気に入っている点はありますか?
この作品は本編素材がもらえず、アメリカで作られたオリジナル予告素材をもとに日本用に組み直しました。
本国と何度もやりとりしながら進めるので、カットの並びや使う尺が思うようにいかないことが多く、妥協が必要なことも多くて。それでも限られた素材の中で、いかに重要なカットを印象的に見せられるかという点は絶対に諦めないようにしました。
そのなかで、日本版予告のメインタイトル前の流れは特に気に入っています。
オリジナル予告は割とテンポ感重視でアクションっぽい流れだったのですが、日本版ではベルのセリフと『美女と野獣』らしいカットでエモ感を出しつつ、しっかりと引きを作れたかなと。
――これだけ成功した理由はどこにあるとお考えですか?
100億という数字は決して狙って出せる数字ではなく、基本的に私たちができる仕事は最初の着火まで。映画公開後はひたすら祈って見守る感じです。
大ヒット御礼のTVCMで盛り上がりを後押ししたりもしましたが、一番大きかったのは、お客さんが求めていたものと作品の持っていた力が合致したからこそだと思います。
この作品はもともとのアニメーション版のファンも多く、プリンセスシリーズの実写化ということで期待値も高かったので、プレッシャーが半端なかったです。
その期待値を下げず、どうしたらもっと上げられるかということに注力しました。
アニメーション版は25年前(公開当時時点)から、長く愛されてきた作品なのでその分ターゲット層も広がります。
実写版シンデレラからの流れは大事にしつつも、さらに間口を広げる必要がありました。
- 王道の楽曲や有名なシーンを丁寧に見せて、往来のファンへの安心感と「待ってました!」の気持ちを盛り上げる
- 実写だからこその映像美で期待感を煽る
- プリンセスファンには、エマちゃんの可愛さとダンスシーンの素敵さを強調
- 親子には、あのキャラクターもちゃんと出ていて可愛い、と伝える
- デートムービーにもなって欲しかったので、「男の人もガストンがいるから楽しめるよ!」と伝える
など……映像としてはできる限りの角度で攻めました。
※YouTubeコメントについて
「思い当たるシーンが多くて感動」「画がゴージャス」「エマ・ワトソン綺麗すぎ」など、実際にさまざまな角度からの「見たい」を感じます!
――予告編以外の部分にも成功の秘訣はあったのでしょうか?
映像宣材の他にもあらゆるプロモーションをディズニーさんが仕掛けていて、『美女と野獣』のお祭り感を世の中に広げていました。
――確かに公開当時、とても話題になっていましたよね。
渋谷の駅前で冬の時期にイルミネーションでライトアップして、美女と野獣の二人が立っているようにしたりして。
「世の中が美女と野獣一色になっているな」といった感じで、今『美女と野獣』が流行っているのだな、といった空気を作り出していました。
――実際、企画員も全員見てました。
※混んでいてやむを得ず一列目で見て、首が痛くなった思い出を持つ企画員も……。そんなこと関係ないくらい、映画はおもしろかったです。
映画を観てさえもらえればクオリティには喜んでもらえると信じていました。
そのため、無事に多くの方に届いてくれたことがとても嬉しかったのと同時に、安心したという気持ちが大きかったのを覚えています。
最終的に国内興行収入124億と沢山の方に観に来てもらえて、予告篇を作ってきたなかでも特別な思い出深い作品となりました。
——ありがとうございました‼
〇浅木裕佳子さん
1976年設立、業界初の映画予告篇制作会社「ガル・エンタープライズ」演出部ディレクター。『美女と野獣』『アベンジャーズ/エンドゲーム』『映画クレヨンしんちゃん』など幅広い作品の予告篇を制作。2020年8月時点の最新作は『ブラック・ウィドウ』『架空OL日記』。
ゲームファンとお笑いファンと、どちらでもない人に贈る『勇者ああああ』
大好きな深夜番組が、この秋から土曜22時台のプライム帯に進出した。
テレビ東京『勇者ああああ〜ゲーム知識ゼロでもなんとなく見られるゲーム番組〜』は、その名の通りゲーム番組なのだが、ゲームをあまりやったことがない人でも絶対に楽しめる。なんといっても、ゲームを使って、誰が見ても笑えるゲーム性のあるコーナーを産み続ける無尽蔵の企画力。
みんなに知ってほしいという建前と、プライム帯でぜひ見たいという私欲を込めて、特に好きなコーナーについて紹介する。
- 世界一豪華なゲーム実況
ゲームはあまりやらないけど、実況なら時々……という人も増えているのではないか。配信で活躍する実況者の方々のスキルはものすごい。けれど、けれど、もしYouTubeの“あなたへのおすすめ”で、好きな実況者に並んで安倍晋三・TOKIO松岡・ムーシー藤田がいたら……あなたのカーソルは迷わないと言えるだろうか?
「世界一豪華なゲーム実況」は安倍晋三が『龍が如く』で反社会勢力と直接対決する図を、真っ先に見たくなってしまわないか?というズルいコーナー。もちろん偽物だけど、本物を知っていれば刺さること間違いなし。安倍さんを知らなくても実況好きなら間違いなし。派生コーナーで、安倍晋三(偽物)と浦安市長(本物)がセガサターンで対決するという非常に訳が分からない企画も。浦安市長(本物)ってなんだ。
- RIFUJIN FIGHTING FEDERATION
年末のチャンネル争いでお父さんに負けて仕方なく見てたら意外と夢中になっちゃって恥ずかしいアレ、の、パロディ。とにかく理不尽。RIZINってあんまライジンじゃないなと思ってしまうくらい、RIFUJINは理不尽。珍しく王道のゲーム番組らしく、シンプルかつ真剣にゲームで対決するので、いつも以上にゲームの楽しさが伝わる。視聴者は「やっぱ人とやるならマリパだよな~」と呑気でいられる一方、演者はそれどころではない。負けた方には罰ゲームではなく、比類なく過酷な“罰”が待っているからだ。ボウリングの球とピンを家まで持ち帰る、ミサンガを付ける(無論自ら外してはいけない)、(家族がいる家で)大声エロ詩吟等々、演者のプライベートに土足で、鋭利なピンヒールで踏み入れる。それもあまり放送には流れない。ゲーム好きから理不尽好きまで誰もが楽しめるコーナー。
- クイズ・クロスフェード
例:プレステ1用のソフト数本の中から、プレステ2本体より発売が後のものを選ぶ。
私は全コーナーで一番好き。知らないゲームがたくさん出てきてワクワクする一方、これはプライム帯でやってくれるのかな~と不安な企画。なんせ出演者が完全に「※P1層©ハチミツ次郎」にしか刺さらない。P1層は土曜22時なにしてるのかな。ザコシがゲーム詳しいのもキュンとくる。見てほしい、というかこれからも見たい!!
※P1層…パチンコ屋に行ってるような奴らのこと
以上、私が特に好きな3企画を挙げた。魅力と疑問に溢れるキャスティングに関しては、番組Pが「クイックジャパンウェブ」でコラムを書いていらっしゃるので、そちらをぜひ読んで頂きたい。
「エンタの神様はアイスを食べながら見なければならない」という謎ルールに毎週縛られていた小学生が、10年越しにまた、ビール片手に土曜22時台の「ですよ。」を見ている感動も伝えたかったが、まだ文章にできなかった。
令和版あーいとぅいまてーんを聴ける『勇者ああああ』は土曜22時30分からテレビ東京で放送中。TVerでも観れるのでぜひ。
【魅力を力説したい】 『罪の声』
2020年10月31日に公開された映画『罪の声』
劇場で観ることができる日をずっと心待ちにしてきた作品である。小栗旬・星野源のW主演で話題となっているため、ご存知の方も多いだろう。そして、脚本はあの野木亜紀子氏。『逃げるは恥だが役に立つ』や『アンナチュラル』、『MIU404』で知られる野木氏が、どんな『罪の声』を描き出すのかにも注目だ。ただみなさんに知っていただきたいのは、なんと言っても、原作のおもしろさだ。
原作は、塩田武士氏による同名の長編小説。
2016年に単行本が発売され、本屋大賞では3位となった。この時点で、というか講談社から発行され話題となっていた時点で大変に興味を抱いていた私。
本は買う派&ハードカバーには手が出ない高校生だった私は文庫化を今か今かと待ち続けていた。そうしてようやく文庫化された昨年。発売されてすぐに購入して読んだところ、案の定、というか予想を上回るおもしろさに息を呑んだ。
題材となっているのは、昭和の未解決事件として知られる「森永・グリコ事件」。その犯罪に使われた子どもの声が自分のものであったと気づくことで、止まっていた事件の時間が再び動き出し、真相に迫っていく。この事件が未解決であることに変わりはないはずなのに、これが真実なのではないかと思うほどのリアルさ、説得力で描かれる作品に度肝を抜かれたものだ。
しかし一番の衝撃が待っていたのは、読み終わったあとだった。
読破した余韻のなかで思わず『罪の声』について調べていた際、当時実際に「森永・グリコ事件」で使用され、報道された「声」を発見したのである。もちろん聴いてみた。聴いて、そして……ひどく後悔した。
襲いかかってくる驚くほどの恐怖。ついさっきまで物語として楽しんでいたものが、確かな過去として迫ってくる感覚。あの事件で声を使われた子どもは実際に存在していたーー今もどこかで、誰も知らない過去を抱えて生きているのかもしれないという事実。圧倒された。
作品を作品として終わらせていれば、この声を聞かなければ、こんなに心を揺さぶられることもなかったのにと思いながら、溢れ出る涙を拭った。
映画は、ストーリーに音も映像もつく。読んだだけでそのおもしろさに圧倒されたあの作品に、音だけでなく映像までついてしまうと、どうなるのかーー。恐ろしさとともに、どうしようもなく楽しみで仕方がない。
ただ、この映画を観終わった時『罪の声』が間違いなく「好きな映画」になっていることだけは、確信している。
「無人島に何かひとつ持っていくなら?」 A.そもそも、どういった経緯で無人島に行くんですか?
「無人島に何か一つ持っていくとしたら、あなたは何を持っていきますか?」
この文言を聞いて自然と想像するのは、無人=自分以外誰もいない=助けてもらえないという前提の下で、いかに生き延びるかという話になりそうだ。では一体何を持っていれば命を長らえさせられるのか、と。
だが、よく考えてみたい。誰がそんな設定を決めたのだろうか。
ロマンを求めて冒険欲に駆られた一部の「勇者」たちや、新人社員を連れ立って彼らの潜在能力をみてみようといった試み、あるいはWi-Fiつながらない南の無人島で人間関係のストレスから解放されるバカンス、……。
思いがけず漂流してしまった!助けが来るまでどうにか生き延びなければ!なんて、いまどきそうそうない。
人は水を3日飲まずとも、食べ物なら7日食べずとも生きることはできるというし、人は一人で生きてはいないのだから、一日行方不明でも気付かれない人はほとんどいない。
こう考えていくと、最初の問いの前提では、そこでいかに自足できるかという話なのはともかく、いつの時代どの場所で一人なのか複数人なのかどういった経緯での話なのか、状況がよくわからない。
そんな条件で、どことも知れぬ無人島に何を持っていくか。
なにがなんでも死なないためには、やはりサバイバル・テクニックが有効だろう。どんな無人島においてでも役に立つことがあるはずだ。水の確保の技術が役に立たないはずがない。食べ物は加熱処理をすればいくぶんか食べられるようになるが、火の起こし方も知識がものをいう。あの木の実は食べられるのかどうか、魚を取る方法や、寝場所の作り方など、知っているほど生きやすくなる。知恵を、サバイバル本を持っていきたい、と考える。
しかしこの問いにおいて、何か一つ選択して持ち込めるということは、少なからず無人島に行く前に準備期間があることは確実だろう。すると、準備の一環としてサバイバル・テクニックを頭に入れて練習しておけば、本の形で持っていかなくても済むはずで、そのためにたった一つしか選べない持参品をサバイバル本にするのはコスト高ではないだろうか。
では食料を、といっても基本的に飢えを感じずに生活させてもらっている身には、エネルギー消費が足りないと感じているため、むしろ多少の飯抜きは歓迎したい。ほんとうに飢えたとしても、持っていけるだけの食糧には限りがあり、底をつけば助からないので、食糧はその場で得られるようにした方が長期的に見るといいように思われる。
他には……、と考えてもまだサバイバル本を開いてもいないので、何を持っていくのが一番便利かなんて見当がつかないし、優先順位がわからない。
わからないなりにひとつ。代わりが利かない道具という点では小刀だろうか。
某錬金術師のマンガでも無人島に放り出された少年二人に渡されたのは、小刀ひとつだった。彼らはそこで世界の真理について考え、ひとつの結論を出すわけだが、彼らの島での生活も、30日間と決められ、命を奪われるような獣はおらず、一応保護者がついていた。魔法の杖を持っていくわけじゃないから万能ではないが、持って行って使わないことはなさそうだ。
しかし、どんな経緯で無人島に行くのか分からないのにもかかわらず、わざわざありきたりな物語のプロットにのって、サバイバル・ゲームに没入する義務なんてないはずだ。生き延びることだけに終始していても味気ない。もちろん短期間の滞在とわかっている場合に限るが、すぐ救助が来る数日間の無人島というのなら、普段できない楽しみがあるのではないだろうか。それも、ありふれた代わりの利くようなものでない何か、だ。
ここからは個人の好みになるが、望遠鏡を使って星を見たいというのが私の答えだ。普段の生活にはなく無人島にあるもののひとつは星だ。少なくとも大気の綺麗さは無人島の方が上なので、街ではかき消される小さな星々の姿を無人島ではしっかりと捉えられるだろう。そして島の位置にもよるが、その場所からしか見ることのできない景色というものが必ずある。そんな場所で天体望遠鏡でも持って行って星を観たのなら、その時その一瞬の光景・記憶は、何にも代えがたい価値を持つだろう。これまでの天体学者たちが発見してきた神秘を体感したり、夜空を廻る生き物たちの物語や神話に思いを馳せたりと、「無人島」という響きから感じるものよりもずっと文明的で文化的な楽しみ方ができるはずだ。あるいは銀河を走る鉄道やその停車場を探してみるのも悪くはないだろう(同行者がいる場合、この考えを知られると頭がおかしくなったと思われるはずなので、秘かに楽しむのがいいだろう)。命は捨てないように準備をして、あとは精一杯その場を楽しむ。そんな選択肢もあっていいと思う。
(でもまあ、同じレンズはレンズでも眼鏡がないと周りが見えなくて命にかかわるんで、どのみち個人的には眼鏡が最優先ですけどね。視力が悪いって不自由ですねぇ。)
「無人島に何かひとつ持っていくなら?」 A.俺なら『イシューからはじめよ』だね。
無人島に1つだけ持ってくとしたら?
う~ん、俺なら『イシューからはじめよ』だね。
え、なぜかって?
確かに、普通の人ならナイフとか図鑑とか実用的なものを持っていくだろうね。
もちろん、そういう意見を否定はしないよ。
でもね、僕ら人類の武器は道具でも力強さでもない。インテリジェンスだよ。
ロジカルシンキングこそが僕たちに無限の可能性をもたらす。
第一、無人島ってことは先に住んでいる人がいない、つまりここはブルーオーシャン。大きなビジネスチャンスなのさ。それを見過ごしてつつましく生きようだなんて、僕にはできないね。僕は無人島にとってのファーストペンギンでありたいんだ。
始めに僕はエビデンスベースドのマーケティングを行い、無人島ビジネスの可能性を探す。見つかり次第クラウドファンディングの末に無人島ビジネスのスタートアップを始める(僕にはたくさんのベンチャー企業の知り合いがいる、起業なんてお手の物さ)。幸い、無人島には様々な自然というリソースがあるしね。
1つチェックしなければいけないマターは、自然と文明の共存だ。自然を利用するのでは資本主義のロジックから抜け出せていない。SDGsのためにも、自然と共存するということ。まさにシティに飽きた我々のスローライフを支援する、といったところだね。
そしてこのビジネスが成功した暁には、海辺に建設したスタバでマックブックを片手にこの本を読みながらこうつぶやくのさ。
「アジェンダ、解決しときました」ってね。
もし、僕のビジョンにアグリーできたら、ぜひともこのスタートアップ企業にコミットしてほしい。きっと素晴らしいユニコーン企業になれるはずだ。
「無人島に何かひとつ持っていくなら?」 A.え?ああ、あつ森の話??
「○○さんがもし無人島にひとつだけ物を持っていくとしたらこの中のどれを選びますかー? ますかー?」
寝袋
灯り
食料
ヒマつぶし
さて、あなたはこの質問が誰からのものか分かるだろうか。
ちなみに、私はこの質問を見たとき、直感的に今後の島での生活に関係するのではないかと考えた。そして、ましてや島の形や島にあるフルーツの種類までも左右するのではないかという危機感まで抱いていた。ここで、島の形と聞いて流行に敏感なあなたは分かったかもしれない。
そう、この質問は、話題の「あつ森」で最初に無人島に住み始めるプレーヤーがまめきちから聞かれる質問である。
ちなみに、この質問は驚くことに島の形もフルーツにも影響しない。本当に「聞いてみただけ」の質問らしい。真面目に考えたのに!というプレーヤーも少なくないだろう。
しかし飽き性の私は、あつ森に割と早い段階で飽きてしまい、島の形もフルーツも今やどうでもいい。でも、このしょうもない質問を割と真剣に考えてみる。
まず、寝袋。確かに安眠のためには欠かせない。これはとりあえず候補に入れておこう。灯りは自分に火を起こすガッツがあると信じてナシ。食料は永久的な量なら話は別だが、自給自足の生活を送るのなら趣旨が異なる気がする。最後にヒマつぶし。私は意外とこれを選択する気がする。だって無人島に誰もいなかったら、寂しくて暇すぎて死んでしまう。候補にしていた寝袋も捨てがたいが、自粛期間中は友達と朝まで電話し続け、全然安眠なんてしてなかったし…
このように考えると、私は日々の小さな楽しみを、余暇を有効活用することで作りだしているではないかと気が付いた。
「無人島に何を持っていくか」なんてありきたりで、あつ森において意味のを持たない質問。けれど、日常の小さな幸せを、衣食住という生活の安定に感じるのか、それとも変化に感じるのかなど、その人の価値観が回答に表れやすい。その意味で、どのような要素に自身が日々の幸せを感じているのかを見つめ直す契機となる素敵な質問なのかもしれない。
「無人島に何かひとつ持っていくなら?」 A.棺桶です。
「無人島に何かひとつもっていくなら?」という問い。
「私は無人島に棺桶を持っていく」と言うと、悲観しきっているように感じるかもしれないが、これは安心と安全のためだ。
無人島でこの一生を終えることを仮定する。当然無人島なので死体は弔われることがない。もし餅を詰まらせて死んだら、その苦悶の顔のまま晒される。まっぴらごめんだ。
私は直射日光に弱いから、死んでも晒されてくはない。棺桶を持参して、毎晩その中で眠れる。そうすれば野垂れ死ぬリスクを半減させることができる。人間死ぬのは大抵晩だ。棺桶はベッドとしても使えて一石二鳥である。さらには夜にさまよう野獣からも身を守ることができる。合理的だ。
人間たるもの死を意識してこそ、光ある人生を歩むことができる。
生命は終わりあるものだからこそ美しい。死を考えることは一見生きることの対極のように思えるが、生死は切り離せない生物の宿命である。死はタブーではない。マザー・テレサの「死を待つ人の家」を知ったとき、初め私は「過酷なことをするなあ」と思った。まだ生きている人に死の訪れを待たせるなど、言語道断だろう。だが、身寄りもなく金銭的余裕もない人々にとって、「死を迎えることのできる環境」の保証は大きな安堵につながる。要するに、私が無人島に持っていく棺桶は「死を待つ人の家」なのだ。
よく、無人島に行くなら「やる気を持っていく」とか「勇気を持っていく」などと言う優秀な就活生がいるけれど、元々そんなものとは無縁の私には到底無理な話だ。
愛?勇気?優しさ?
そんなものを無人島に持っていくのは形而上世界の住人だけだ。
愛とか勇気だとか、そういうアンパンマンみたいな装備品は持ってないよーと
いう方、棺桶は手ごろでおすすめだ。金さえあれば買える。
そうだ、無人島に行こう。最後に有り金叩いて、棺桶買おう。