早稲田大学マスコミ研究会

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『サンタの匂い』ペンネーム:モリリン

「匂い変わった? すごくいい香り」

 姫が私のそばを通ると今までに嗅いだことのない上品な香りが鼻から入って脳みそを刺激する。一瞬あたりが真っ白になって、薄ピンク色の花が咲き乱れる草原にいるかのような感覚に陥った。

「フランスに出張してたお父さんがお土産に買ってきてくれた香水をつけてみたの。臭くない? ほら、海外の香水って匂いがきついイメージがあるから」

 私が感じたことをそのまま伝えると姫は嬉しそうに微笑み、軽い身のこなしでスキップをするように狭い教室のドアから出て行った。

 フランスに出張してたお父さんがお土産に買ってきてくれた香水、同じような境遇にある香水を知っている気がする。それは「気がする」という不安定で曖昧なものだが、私が「気がする」と思った時それはほぼ間違いなく事実として肯定されるべき確定要素であった。しかし、いつどこで誰とそんな内容の話をしたのだろうか。あるいは今回は私の「気がする」が外れてしまった例外的な事案なのだろうか。

 脳内の末端にある記憶の引き出しを開けるための鍵を探すことに神経を集中させていると、姫の香水の香りが一種の懐かしさを孕む記憶的遺産として感じられるようになってきた。どこかで嗅いだことのある、フランス、お土産、いい香り、そして姫。鍵を探っていた脳内の使者たちは散らばっていたいくつもの鍵を集めて何層もの壁に囲まれていた荘厳な金庫の元へとたどり着く。使者たちと同じように私の意識もそのただ一点にのみ収束され、金庫の扉を開こうとしている。そこに教室を出た姫が帰ってきて芳醇な香りを再び届けた。ひどく分厚いサビが剥がれる音がして、都合よく保管されていた記憶が鮮明な五感とともに蘇った。

 

 あれは今からちょうど十年前、私が小学校に入学して最初のクリスマスを迎えようとしていた時のことだ。私には今と同じように姫というあだ名のついた友達がいた。本名に姫という読みがあるわけではないが、服装や身のこなし方がお城に住んでいて白馬の王子様と結婚するお姫様みたいだったからそのあだ名がついた。みんなからはお姫ちゃんと言われていた。そんなあだ名をつけることに担任教師は濁った顔をしていたかもしれないが、女の子にとって小学一年生というのは恐ろしいほどお姫様に憧れてしまう避けては通れない人生の一時なのである。

 クリスマスが近づくにつれて、プレゼントは何にしようかな、という話が私たち女子グループの話の主軸をなすものになっていった。私は仲間外れが嫌だったから名目上はその話に参加していたが、その中で私は決まって肩身を狭くして愉快でない思いをしなければならなかった。

 私は当時親の都合でとある新興宗教のメンバーだった。そこには反キリストのような性格があって、小さい頃からクリスマスは悪なのだと両親からみっちりと教えられてきていた。サンタクロースなるものは悪人である。母は十二月になると口癖のように、そして呪文のように唱えた。

 そうだ、事件はクリスマスイブの夜に起きたのだ。

 その夜私は全く眠れずにいて、一人自分の部屋から自宅の庭を眺めていた。うとうとしてきて布団に戻ろうとした時、一瞬庭を黒い影が横切ったような気がした。長い銛で心臓を一突きされたような感覚があり、その場から動けない。でもその正体を知らなければならないと本能的な何かが告げていた。恐る恐るレースカーテンを開けて庭を見る。何もいない。いや、違う。庭の隅でうずくまった赤い何かが見える。赤と白の、そうだ、あれはサンタクロースだ。何度も母親に見せられてきた負の象徴サンタクロースだ。

 窓を開けて庭に飛び出すと、私はその小さなサンタクロース目掛けて飛びかかった。わずか七歳にして私の基盤には新興宗教の教えがびっしりと根を張っていて、悪人を排除しようとする強い使命感に襲われた。さらに恐ろしいことに、その教えは庭に侵入した悪人に飛びかかるというあり得ないほどにタフな七歳の女の子を作り上げてしまった。

 どうすれば退治できるのかを私はよく知っていた。団体を抜けた人を処分する光景を偶然見てしまったことがあった。首を絞めれば人は死ぬ、それは紛れもない事実として把握していた。サンタクロースの首根っこを両手でつかんで精一杯の力で握る。信じられないほどの力がみなぎってくる。サンタクロースがか細い声をあげて手足をバタバタする度に手の力は強くなっていった。あと少しで終わるというときに嗅いだことのあるいい香りが鼻を通り抜けた。頭の隅っこに押しやられていた記憶の断片が浮かぶ。フランスに出張してたお父さんがお土産に買ってきてくれた香水、そうか、お姫ちゃんの匂いだ、と私は思う。

 その香りのおかげで冷静になることのできた私は腕に痛みがあることと、赤と白の帽子をかぶって泣いているお姫ちゃんが私の下敷きになっていることを知った。その涙が苦しくて出たものなのか悲しくて出たものなのか。当時の私には判断することができなかった。

 彼女は何も言わずに走って家に帰ってしまった。痛みを感じた右腕の袖をめくってみるとそこにはくっきりと手の跡がついていた。五本の指が私の腕を強く握っていたことを示す揺るぐことのない証拠であった。きっとその跡からは恐怖と深い悲しみを感じることができたであろう。もちろん七歳児にそんなことはできないのであるが。

 

 私が引き上げることのできた記憶はここまでだった。この後私は不登校になってその一ヶ月後にちょうど引っ越すことになったからお姫ちゃんがどうなったのかということは知らない。

 右腕に違和感があったので袖をめくってみると、綺麗な三日月の痣が四つ並んでいた。それは紛れもなく人の爪によってできたものだった。小さな女の子の爪痕だろうか。今までこんな跡があるのに全く気が付かなかった。

 どこからか手が伸びてきて、そこに印刷された手形に自分の手をピッタリと合わせるように私の腕を掴んだ。

「懐かしいね」

 相変わらずいい香りのする姫が歯茎を見せて笑っていた。