早稲田大学マスコミ研究会

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黒点 作:親王

二〇〇四年十一月十三日

 

 透き通った赤色の景色の中で、それは異物として目に飛び込んできた。日の光を通して、薄赤く行燈のように光る粒の中に、黒々とした点が一つだけ打たれていた。古い印刷機で、インクが零れたときみたいに。

「あれ、なんだろ」

 私は橋の上で立ち止まって、指でその黒点を指し示した。どれよ、どれよ。恋人が私の指先を目で追った。

「ほら、あれ。黒いの」

 よく見ると黒い点は、点というより線だった。印刷機というより、私が手紙をしたためているときに零してしまう、不格好な形の黒だった。

「あ、あれか」

 恋人も腕を上げて、黒い異物を指した。そうそう、あれ。私は頷いて、

「なんだろうね、あれ」

 と促した。

「えーあー」 

 恋人は目を凝らしたり、背を伸ばしたり縮めたりして、黒い異物を観察した。その挙げ句、「靴下じゃね?」と意外すぎる答えが恋人の口からほとばしった。

「くつしたぁ?」

 おかしくって、私は恋人の横顔を見返した。「そんなことあるわけ……

 しかし恋人の横顔はいたって真剣で、私は言いさした。まさか本当に、と思って、もう一度黒い異物を見上げた。

 なるほどそれは、黒い靴下だった。細枝に引っかかって、だらんとだらしなくぶら下がっている。紅葉を台無しにするような、汗臭さがここまで漂ってきそうな、よれた靴下だった。

 でも、なんであんなところに。

「どうやったら引っかかるんだろうね、あんな高いところ」

 恋人は笑って、私に顔を向けた。

「さあ」

 私も笑って、首を傾げる。

 私たちが立ち止まって上を見上げていたものだから、他の見物客も私たちの近くで立ち止まって、上を見上げていた。

靴下だよね、あれ。後ろのカップルが、そう呟いたのが聞こえた。

「行こうか」

 恋人は言って、私の腰に腕を回した。

「うん」

 私は湿っぽく頷いて、恋人に身を寄せた。紅葉が彩る橋の上を、静かに歩き出した。

 

九ヶ月前(二〇〇三年二月十四日)

 

 橋の上は、風が強く吹いた。夜の暗闇に黒々と浮かぶ枝木がわさわさと揺れた。

 寒かった。身を切るような寒さだった。

 二月十四日の早朝。バレンタインデー。

 でも俺の手に握られていたのはビターチョコレートでも、チョコチップクッキーでもなく、びしょびしょに濡れた黒い靴下だった。

「バレンタイン前夜自己防衛会議」に行くことが決まったのは、二月十日だった。実際に誘われたのは二月一日だったが、そのときは彼女がいたので、誘いのメールは無視していた。

『俺も、行くわ』

 メールを返すと、すぐに詳しい日時と場所の情報が送られてきた。羅列されたメンツを見ると、中学から地元に居残っている愉快な仲間たちの名前がずらっと並んでいた。

 みんな見た目は変わっていた。でも変わったのは見た目だけで、しかも少し清潔感がなくなっただけで、中身も地位も大して変わっていなかった。

「お前、髭それよ」

「うるせえ」

 隣に座った小太りの友人の髭を触ると、友人は顔を顰めた。俺の手をはじいて、俺がいじくった髭を撫でるように整える。

「この髭がカッコいいってよく言われるんだ」

「誰に」

「職場の女の子に決まってるだろ」

「いま無職だろ」

「うるせえ」

 友人は一気にジョッキを干した。

「いいねえ」

この会の主催者らしいノッポの友人が、愉快そうに手を叩く。

 記憶はそこから曖昧になる。なんとなく楽しかったには覚えている。なんとなく不快で、やるせない気持ちに呑み込まれそうになったのも、覚えている。すぐ隣の侘しい気持ちに取り込まれないように、必死に笑い飛ばしたのを、覚えている。

 でも。

 気持ち悪くなって、橋の下の川に吐いた俺は、そのまま欄干を背もたれに腰を下ろした。

 でも、この靴下は、いったい誰のだろうか。

 俺は、左手のくたびれた黒靴下を見つめた。芯までびっしょり濡れていて、冷たくて重たい。

 今度は視線を、伸ばされた自分の足にスライドする。両方の足にはしっかり靴下がはめられていて、しかも色は白だった。

「しーらねっ」

 俺はそう吐き捨てて、手に持っていた靴下をほいと投げ上げた。

 

十ヶ月後(二〇〇四年十二月二十四日)

 

「好きな人が、できたんだ」

 ちょうど一ヶ月前、海の見える公園のベンチで、そう切り出された。手を繋いで、二人で海を見ていたところだった。夜だった。波の音だけが、耳に流れてくる。

「え」

 耳を疑った。私は彼に向き直る。向き直った途端、彼は重ねていた手を引いて、視線をベンチ下の下生えにやった。

「どうして」

 私は彼の腿に手を乗せて、身を乗り出す。すると彼は同じだけ身をのけぞらせて、

「ごめん。別れよう」

 とそっぽを向いて言った。首のあたりに、顎の影が小さくできていた。こんなところにこんな形の影ができるのか、この人は。

「まって、それはひどいよ」

「ごめん」

「どこで」

「職場の人。ごめん」

 彼の声は、想像以上に平板だった。もう、とりつく島もない。私は彼の中で、既にどうでもいい存在になってしまっている。ついさっきまで喜びも悲しみも共有していると思っていた存在は、その「好きな人」をこしらえた時点で、私の隣から音もなく消えていたというのか。

「もう、行かなきゃ。終電が」

 彼は言って、ベンチから腰を上げた。彼の腿に置かれていた私の手は、力なく冷たいベンチに滑り落ちる。

「まって」

 彼の背中に、手を伸ばした。けれど彼は私と並んで歩くときよりも早足で、服の裾さえ掴めなかった。

 

 それから、一ヶ月。クリスマスイブの日。

 私は、わざと人通りの少ない道を選んで家に帰っていた。

 いつもの大通りには、眩しいほどのイルミネーション施されていて、前も横も後ろもカップルしか見当たらない。そんな道を、失恋ほやほやの心持ちで歩けるほど、私はタフではなかった。

 ちょうど橋の上を歩いているときだった。冷たくて強い風が、弱った私を乱暴に吹いた。

 ざわざわ、という枝木の音に、パキパキ、という音が混ざった。

 私はベージュ色のコートに顔をうずめ、足をはやめた。

 そのとき、向かい側から背の高い男性が歩いてくるのが見えた。私と同じようにコートに顔をうずめて、ポケットに手を突っ込んで歩いている。

 私は上目遣いを滑らせて、男性の顔を確認した。髪の毛はがっしりとワックスでセットされていて、鼻は高く目は大きかった。

 どうせ、彼女持ち。

 ひねくれた思考をしながら、横をすれ違おうとする。少しだけ左に歩幅をずらして、男性との間にスペースを作った。男性から視線を外して、歩幅は変えずに、すれ違う。

 ぼとん。

 そのときだった。私と男性の間に、何かが落ちた。音はなかったが、たしかにぼとん、と何かが落ちたのだ。

 私は立ち止まり、落ちたものを凝視した。最初は何かわからなかったが、見ているうちに、それは非常に見覚えのある形をしていることに気がついた。

 靴下だ。

 私は反射的に上を見上げた。見上げた途端、男性の顔が視界に入って、そこで視線を止めてしまった。

「どうも」

 男性もちょうど上を見上げようとした瞬間らしく、不覚にも目があってしまった。

「こ、こんばんは」

 私は小さく、会釈する。

 それから、地面に落ちた靴下に再び視線を落とす。殺風景なコンクリートの上に、黒い靴下が浮かんで見えた。

「これ、いま落ちてきましたよね」

「ええ、はい」

 男性を見ると、男性も靴下を凝視していた。私の顔は見ずに、姿勢を低くして靴下に顔を近づけている。

「靴下、ですね」

 男性は、私の顔を下から見上げるかたちで言った。その顔には、あどけない笑みが浮かんでいる。

「みたい、ですね」

 私は辛うじて頷いた。

「なんか、気持ち悪いですね」

 男は姿勢を元に戻した。目は依然として、靴下に向けられている。

「誰のでしょうね。交番に、届けた方がいいのかな」

 男性はつま先で、黒い靴下をつっついた。男性の黒い革靴に、靴下は左右になぶられている。

「サンタ……

 私は料理される靴下を見ながら、ほとんど無意識に、ぽつりと呟いた。

「ふっ」

 男性が吹き出した。その吹き出した音を聞いて、私はかあっと熱くなった。

 なんて馬鹿なことを、口走ってしまったのだろう。

「ち、違うんです」

「面白いこと言うんですね」

 男性は、コートの袖で口元を隠しながら、くつくつと笑った。細くなった目が、私の顔を捉えている。

「じゃあ、僕、友達と約束があるので」

 一通り笑い終えると、男性はひょいと手をあげて歩き出した。

 靴下は、地面にほっぽかれたままだ。

 私は遠く小さくなる背中を、しばらく見つめていた。

「ともだち」

 口の中で、そう呟いて。