早稲田大学マスコミ研究会

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『スズメを踏んだ日』 ペンネーム:サカモト

 夏休みのラジオ体操は退屈極まりなく、ぼくは眠たくて仕方がなかった。子どもの生活リズムを乱さないためにあるのだろうが、余計なお世話すぎる。都会の子どもは夜更かし上等、早寝早起きなんてくそ喰らえだ。

 

 その帰り道、道にスズメの死体が転がっていた。住宅街にスズメが落ちているというのは異質なもので、明確な非日常としてかなり目立っている。しかしながら、通り過ぎる大人や子どもは気にかけもしない。そんな冷たい奴らをにらみつける。このスズメは、このままカラスや野良猫の餌になってしまうかもしれない。あるいは、誰かが踏みつけてしまうかもしれない。そんな想像をしてしまった以上、スズメを見捨てることなんて出来なかった。持っていたハンカチにスズメを包み、大事に抱えて家に持ち帰った。

 

「スズメのお墓を作ってあげよう」

 そう思っていたもののその日眠気は凄まじく、家に帰るなりソファで居眠りをしてしまう。起きたら、スズメを埋めてあげようと思っていた。

 

 そんなぼくを起こしたのは、ヒステリックな母の声だった。

「きゃっ! 何よそれ‼︎」

「あ、スズメが落ちてて、可哀想だったから……」

 このとき、ぼくは少し期待したことを覚えている。ぼくの優しさを肯定し、一緒にお墓を作ってくれる母を期待したのだ。しかし、母はそんな甘いセリフは言ってくれなかった。

「汚い! 捨ててきなさい!」

 愕然とした。母にとって、スズメは汚物だというのか? 朝から母と大喧嘩をした。反抗期だったぼくはなかなか酷いことを言った気がする。要反省である。

 

 母の良いところは、喧嘩の後の仲直りが上手いところであった。言い争いから1時間ほどして、すぐに謝ってくれた。

「ごめんね、でも動物の死骸は菌があって汚いの。触ると病気になるかも知れないし......。分かってね」

 いつも通り、ぼくと母の喧嘩は手短に終わる。

 

 母の「汚い」という発言は、ぼくを慮ってのことだったのだろう。しかし、『死骸』という表現が気に障った。息子への愛情はあっても、スズメへの同情は無いようだ。差別主義者の母に勧められ、スズメを近くの公園で埋めることにした。スズメを持って家を出て、公園へと歩く。

 

 歩きながら、母とぼくの違いを考える。母はスズメよりぼくを優先した。見ず知らずの野生動物より子どもを優先するのは当然といえば当然だ。しかし、母は生きられなかったスズメに同情する様子はない。これが普通なのか?

 

 考え続ける中で、一つの仮説が浮かび上がる。スズメに同情しない母の考えこそ正しいんじゃないか? 人が生きる以上野生動物が死ぬことは当然である。ぼくたちは豚や鳥を殺して食うことで生きている。動物一匹の死に心動かされることは弱さで、間違っているんじゃないだろうか。

 自分に自信がなくなった。スズメを拾ったぼくはスズメを無視する人々より幾分かマシな人間と思っていたが、どうもそうではないらしい。強い人はスズメの死に何の関心も抱かないのかもしれない。

 

 ぼくは強くなれるだろうか。ふと、試してみたくなった。公園の端、林の中へ歩く。ここ数日ずっと晴れていたからか、地面はすっかり乾き硬くなっていた。ぼくは、乾いた地面へ勢いよくスズメを叩きつけた。ズキッと胸が痛む。同情する相手に非情な行いをするなど、気分のいいものではない。

 しかし、こんなことではいけない。死体にいちいち同情するなんて情けない。そう思い、スズメを力いっぱい踏みつける。胸の痛みは頂点に達し、どこか恐ろしくなったぼくは逃げるようにその場から去った。結局、ぼくは強くなれないようだ。

 

 スズメはあの後どうなっただろう。カラスや野良猫の餌となっただろうか。はたまた、土に還ることができただろうか。その結末を気にする時点で、ぼくは弱いのだろう。