ドロップアウト ペンネーム:親王
「乗って。荷物は後ろね」
流線型のきれいな、青い車から顔を出した時田くんは親指で後部座席を指した。
『どっか連れてって』
そう彼に連絡したのは、今日のお昼休みだ。今日なんとか間に合わせた企画書、そして迫り来る明日のプレゼンのことを思ったとたん、背中を何かに押されるような、向かい風でうまく息が吸えないような感覚に襲われた。冷や汗をかいた私は、助けを求めるようにほぼ反射的に彼に連絡した。
『いいよ』
一分も待たずして、すぐに返信があった。
さすが時田くん。思いながら、私は仕事の終わる時間を告げた。
「どこいく」
バホン、と扉を閉めて座った私に時田くんは問うた。背を猫のように曲げて、カーナビをピコピコいじっている。
「どこがいいかな」
自分で誘っておいて、私は何も決めていなかった。時田くんと会うときはいつもそうだ。
「ボウリングとか」
「いや」
私は首を傾げた。そういう気分ではない。
「じゃあ、カラオケ?」
それもまた違う。
「うーん、山、かな」
「やまぁ?」
時田くんはすっとんきょうな声を上げて、私の顔を見た。
「うん、山」
私は淡々と頷いた。
「まあ、いいけど」
時田くんはカーナビに顔を戻し、「やまやまちかくの山は」なんて呟きながら、カーナビを指でつつきはじめた。
しばらく走ったところで、本当に山が見えてきた。オレンジがかった空を背に、山は黒々と浮かんで見えた。
「山だ」
「そりゃね」
感動する私をよそに、時田くんは左右確認をしている。
その山は、まったく隙のないように見えた。木々がもりもりと敷き詰められていて、一つの塊のように見えた。
「あの山、入れるの?」
「一応。車で登れるっぽいけど」
私は首を伸ばして、ナビを覗いた。なるほど、ちゃんと到着地点に指定できている。
「本当だ」
「まあ、無理そうだったら引き返すべ」
彼は言って、車をぐんと前進させた。
山には、たしかに車で入れた。錆びついたガードレールにがたがたの車道は不安を煽ったけれど、コンクリートの道は続いていた。
時田くんはハンドルをほぼ一定の角度に傾けたまま、正面を見続けていた。木々の影から続々とコンクリートの道が現れて、我々を上へ上へと連れて行く。だいぶ傾いた夕陽の光を受けて、道は金色に輝いていた。
「もう、終わりかな」
しばらく登ったところで、車道は突如終わりを告げた。川の源泉の泉のように、道の終わりは少し広くなっていて、落ち葉が溜まっていた。
「降りるか」
時田くんはシフトレバーを動かすと、シートベルトを外して外に出た。フロントガラスの前に出た彼を追って、私も外に出る。
「すげえ」
先に立った時田くんは、泉の端から見える景色に声を上げて私を振り返った。
時田くんの隣に並んで、私も目を見張った。
荘厳な景色だった。手前には木々が、その向こうには街があった。街の向こうに落ちかけの夕陽が光を投げて、その光でこちらの木々の葉が照っている。
アー、アーと空から乾いた声が聞こえた。見上げると、頭上には無数のカラスが飛び交っていった。死体でもあがったのだろうか、みな思い思いに身体を傾け、羽をばたつかせ、上昇と下降を繰り返している。
「この後、どうする」
時田くんは私の方を見た。時田くんと私の間に光がさして、白いチラチラしたものが浮いて見える。
さてどうしたものか。もう少しリフレッシュした方がいいか。しかし、何かに追われるような感覚は既に消えていた。
「帰る。明日も仕事だし」
私が答えると、時田くんの顔が少しだけ歪んだ。時田くん自身も気が付かないくらいの、わずかな歪み。
「そうだな」
時田くんは鼻の下を擦って、ポケットから車のキーを取り出した。さっきまで「すげえ」と絶賛していた景色には目も暮れず、車に戻って行く。
どうしてそんな顔をするの、時田くん。
私は時田くんが見捨てた景色に、ふたたび視線を投げた。
私たちは、そういう関係にはなれない。そういう抜き差しならぬ関係には、なりたくないの。あなたは私にとって、時間からも、男女のしがらみからも逸脱した、いわば息継ぎする場所なんだから。