早稲田大学マスコミ研究会

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『プラナリア ~影の正体と終わりのない空間~』(ペンネーム:ぺいぺい)

 ドク、ドク、ドク、ドク、……

 不気味な心臓の高鳴りを感じながら、僕は夢を見た。幼い頃の最悪な記憶。それは忘れたくても忘れられない、僕が母親に捨てられた時の記憶だ。

 

 僕が生まれて間もない頃、父親が交通事故で死んだ。それ以降、母親は僕を養うため昼夜問わず働いていたが、労働へのストレス、僕を育てる義務感、金銭的に困窮した生活。さまざまな現実に押しつぶされそうになり、母親は限界を迎えた。

 

 三歳の誕生日。親は僕を捨てた。

 

 その時、僕は心の奥底で形のないモヤっとした負の感情が湧き出てくるのを感じた。それはまるで、自分の体がプラナリアのように分裂し、新しい自分が生まれたかのような感覚だった。

 

 母親に捨てられた僕は、行く当てもなく途方に暮れているところを、警察官に保護され、孤児院に預けられた。孤児院には、僕と同じように親に捨てられた子供たちがたくさんいた。中には、親からの虐待を受け、殺されかけた子供もいた。親に捨てられたという同じ境遇を経験した同世代の子供たちにシンパシーを感じ、共同生活をしていく中で、少しずつだが心の奥底にあるモヤっとした負の感情が和らいでいった。

 

 僕が転機を迎えたのは、十歳の誕生日だった。優しそうな中年の夫婦が孤児院にやってきた。夫婦は結婚して十年を迎えたらしいが、不幸にも子宝には恵まれず、養子縁組で子供を引き取ろうと孤児院に来た。今までも養子縁組で子供を引き取ろうと何人もの夫婦が孤児院を訪れたが、この日訪れた夫婦からは今まで経験したことない、陽だまりのような温かさを感じた。幸運なことにこの夫婦は僕を選んでくれた。

 

 十歳の誕生日。僕は小鳥遊家というプレゼントをもらった。



「お母さん、おはよう」

 

 いつものように、僕は二階にある自分の部屋を出て階段を降り、リビングで朝食を用意してくれているお母さんに挨拶をした。

 

「おはよう、直人。そして、お誕生日おめでとう。あんたも、今日で十八歳になったんだね。」

 

「うん。お父さんとお母さんが僕を引き取ってくれて、今日で八年目。その間に、いっぱいの愛情を注いで育ててくれてありがとう。そして、これからもよろしくね。」

 

「っ……朝から何よ……母さん、あんたがこんないい子に育ってくれて、うれしくて涙出ちゃったじゃない」

 

と母は嬉しそうに笑いながら涙を流した。

 

 朝食を食べ、身支度を整え、玄関に向かった。

 

「じゃあ、行ってきます」

 

「行ってらっしゃい。今日は、あんたの誕生日だからごちそう作って待ってるわね。父さんも会社の帰り道でケーキ買ってきてくれるからね」

 

「うん。楽しみにしてる」

 

 そう言って、僕は学校へ向かった。

 

 学校では、仲のいい友人たちが誕生日を祝ってくれ、プレゼントまでくれた。母親に捨てられた時には想像もしていなかった幸せな生活に、満足感を抱いていた。

 

 終業のチャイムが鳴り、僕は帰路についた。いつものように途中まで、友人とおしゃべりしながら帰り、いつもの交差点で別れ一人になった。その時、それは突然現れた。

 

「よう、久しぶりだな」

 

 黒いフードを被ったあやしげな男に話しかけられた。突然話しかけられ思考が追いつかなかったが、なぜかその男から懐かしさを感じ、どうも僕はその男を知っているかのような気がした。

 

「あなたは誰ですか? あなたのことはなんとなく知っているような気がするのですが、どこかでお会いしましたか?」

 

「ははは、それはないぜ。長い付き合いなのに、そんな他人行儀な態度があるか」

 

 そう男は笑いながらフードを取り、顔を見せた。その瞬間、僕はあの不気味な心臓の鼓動が高まり、後頭部を鈍器で殴られたこのような衝撃を感じた。

 

「……あ、あなたは……僕!」

 

「そうだぜ。俺は小鳥遊直人。もう一人のお前だ。」

 

 何度も鏡越しに見た顔、少し声高な声、特徴的な右眼の下にあるほくろ、どれをとってもその男は寸分たがわず、僕自身に違いなかった。

 

「俺は、お前が本当の母親に捨てられた時に生まれた。非情な現実への恨み、母親への憎しみ、お前自身の負の感情によって俺は生まれた。言わば、俺はお前の影、負の感情が色濃く反映された別側面ってわけだ」

 

「っ……そんなわけない。僕はお父さんとお母さんに引き取って育ててもらって、幸せを与えてもらったんだ。いまさら過去の……母親のことなんて、僕に関係ない!」

 

と僕が強く否定すると、もう一人の僕は満面の笑みを浮かべながら言った。

 

「ははは、滑稽だなぁ。だから俺がここまで成長できたんだよ。お前は、本当の母親に捨てられた過去から背を向け、偶然目の前に転がり込んできた細くて脆い幸運の糸を切らさないように、必死に優等生を演じ、自分を偽りながら生きてきたに過ぎない」

 

「っ……ち、違う……! 僕は、お父さんとお母さんの子供になって生まれ変わったんだ」

 

「いーや、違う。お前は、ただ信じたくない現実から目を背け生きてきた、軟弱な人間のままなんだよ。お前の本当の母親がつらい現実から背を向けお前を捨てたように、お前は母親に捨てられた現実から背を向け続けてきただけだ。親が親なら子も子、所詮、血筋には逆らえないんだよ!」

 

 もう一人の自分に考えもしなかった、いや彼の言う通り考えることを放棄していた現実を突きつけられ、僕は全身の力が抜け放心状態に陥った。そんな状態の僕に、もう一人の僕は冷酷な口調で『死』を宣告した。

 

「ネタばらしはここまでだ。お前の体をいただく」

 

 そう言ってもう一人の僕は僕の頭を鷲掴みにし、落ち着いた様子で唱えた。

 

『Inversion』

 

 途端、黒い霧のような何かに体が覆われ、僕はなす術もなく取り込まれた。



 落ちていく───落ちていく───落ちていく───落ちていく───

 気がついた時、僕は辺りに何もない真っ暗な空間にいた。何もなく、終わりのない空間。あるのは、底がない穴に落ち続けるような落下感のみ。

 声を出してみたが、何も聞こえない。おかしい、自分の声さえ聞こえないのだ。何度も試したが、結果は同じだった。今まで感じたことのない孤独感、母親に捨てられた時よりも濃密でねっとりとした恐怖を感じた。

 

(こんなにも何もなく、終わりのない空間で永遠に落ち続けるぐらいなら、自殺したほうがましだ)

 

 そう思った僕は舌を噛んで自殺しようとしたが、それすらできない。体が動かせない。ここには自分に共鳴してくれるものが何もないのだ。自分の声に共鳴してくれる空気、自分の指示に共鳴し即座に動いてくれる体、普段無条件に共鳴してくれる当たり前の存在がここにはない。

 そして、この空間では死、つまり終わりすら与えられない。生物には活動限界、つまり死という終わりがある。なのに、ここにはその終わりすらない。死という終着点を失った生物は、一体どうなってしまうのか。僕は何もなく誰もいない、地獄すら天国に見えてしまうこの空間の中で絶望した。

 

 随分と時が流れた……ような気がする。ここには、時間という概念も存在しない。だから、一五分しかたっていないかもしれないし、一ヶ月ぐらいたったのかもしれない。体の感覚はすでになく、自己認識だけかろうじて残っている。しかし、とうとうその自己認識にまで、異常を感じた。

 

(……あれ、……ボクは何モノなんダッケ……)

 

 思考がままならなくなり、意識が薄れ、自分を認識できなくなってきた。すると突然、僕は落雷に打たれたかのような衝撃を感じるとともに、一つの考えが走馬灯のように浮かんできた。

 

『人間は他人から認識されることで初めて存在できる。そして、その認識を簡易かつ確実なものとするために、識別コードとして名前という手段を用いる。人間は誕生して、親から名前を与えられる。親が子に名前を与えて認識することで、子はこの世界に存在できるのだ。つまり、人間は単独では存在できず、周りのあらゆるものに認識、共鳴してもらって初めて存在を確立できる、か弱い生物。』

 

 そんな大切なことに、ボクはすべてを失い、何もないこの空間に来て初めて気がついた。

 

 今なら、誕生日の本当の意味がよく分かる。誕生日はプレゼントをもらえたり、ごちそうを食べられたり、普段とは違う特別な一日。でも、それらはすべて目的ではなく手段。誕生日の目的は、年に一度、他人からこの世に誕生したことを祝われることで、自分がこの世に存在していると自分自身で強く認識することなんだ。その目的をより達成しやすくするために、プレゼントやごちそうといったインパクトの強い手段を取っていたに過ぎなかった。

 

 なのに、いつからかボクは、その目的を忘れ手段ばかりに目をやっていた。そして、ボクが過去に背を向け、本当の自分を認識しないように目を塞ぎ続けている間、もう一人のボクは、心の奥底で毎年誕生日を迎えるごとにその存在の認識を強固なものにし続けてきた。周りからの祝福を外側しかないボクでは受け止められず、俺が受け止め、他人からの認識を成長の養分にしていたんだ。

 

 いまだに続く落下感、自己認識の欠如、そして、ついに感情すら湧いてこなくなった。

 

(ボクはキエルのか……いやだ、イやだ、イやダ……ダレかタスけて……イヤダ……)

 

 それが、ボクにとって最後の感情だった。

 

 十八歳の誕生日。本当の自分に向き合わず、外側しか構成してこなかった中身のない僕は、外側を持たなくとも中身を濃密に成長させ続けた俺に外側を乗っ取られ、僕は終わりのない空間に囚われた。そして、俺が誕生した。