早稲田大学マスコミ研究会

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『スノーグラス』

「そういうことだってあるのよ」

 遠い記憶の中で彼女は言った。彼女の言葉は僕の心で渦巻く深い暗闇の中において確かな道を照らし出すことができた。捉えどころのない、そして相手を突き放すようで、でも発する言葉の一つ一つには肌で感じられるほどの温かさがあった。いったいどれほど救われたのかわからない。それは彼女がもういなくなってしまった後でも同じだ。僕はこれからも彼女の幻影と共に生きていくのだろう。いや、そうでなければいけないのだ。

 

「今日で5年」と心の中でつぶやいて、僕は彼女が眠る墓石の上に青色の縁をした眼鏡を置いた。目を瞑ると彼女との思い出が鮮明に蘇った。甘いシャンプーの匂い、髪の質感、体の温もり。脳内の金庫の鍵を一度開いてしまえば、自動的にそして強制的に思い出されてしまう。

 目を開けて一刻前に置いた眼鏡を見ると、レンズの表面には綺麗な球体の形をした一滴の水滴が垂れていた。僕は無意識のうちに膨大な記憶の中から6年前の冬の記憶だけを取り出そうとしていた。それは珍しく東京に雪が降った12月の話だ。今から6年前、彼女は23歳で、僕は何も知らない19歳だった。

 

「何? 見えない?」

 20メートルほどしか離れていない駅の案内板を読むことができない僕を見て彼女は驚きと困惑の表情を浮かべた。

「あんな近くの文字も読めなくてどうすんのよ。じゃあこれは?」

 そう言って彼女は僕の顔の前にピースサインを作った。

「2です。そのくらい分かりますよ。最低限普通の生活に支障が出ないくらいには見えているから大丈夫です」

「近くにある案内板を読めないことを人は生活に支障があるって言うのよ」

 僕が何も言えずにいると、雲の多い夜の空から雪が降りてきた。もうこの話はやめてくれという心の中の叫びが神様に届いて、話題をそらすために雪を降らせてくれたのではと考えた。救世主としての雪。それも悪くない。

 僕たちは近くにあったベンチに座って白い雪を体いっぱいに浴びることにした。僕も彼女も、雪が大好きだった。

「さっきの話だけどさ。なんで眼鏡を掛けないわけ? こないだ君がパソコンをいじってた時、眼鏡かけるんだって思ったんだよね、そういえば。持ってるんならすればいいじゃない」

 どうやら雪は救世主でなかったらしい。むしろ、その逆だった。彼が引き連れてきた本格的な寒さによって僕はいつもの冷静さを欠いていた。

「授業を受けるとか、細かい作業をするときには掛けますよ。でも、それ以外の時にはつけたくありません」

「なぜ?」

「眼鏡を掛けていると疲れるんです。どうでもいい細部までくっきり見えてしまうというか。裸眼のままでいると世界がぼやけて見えます。はっきりと見ることのできる手元と見ることのできない遠くの世界の間に境界線みたいなものがあって、内側の領域は完全に僕の世界です。自分以外の何者も干渉しない、安らぎの空間。僕には必要なものです」

 勢いに任せて言ってしまうと、段々と自分の頬が火照っていくような感覚があった。迷惑な寒さを持ってしても、それを抑えることはできない。

「きっと何か辛いことがあったのね。眼鏡は今持ってる?」

 僕は素直に頷く。

「じゃあ掛けてみて。そして見るの、目の前にどんな世界が広がっているのか。大丈夫、私がいるから」

 なぜだかわからないが、僕はどうしようもなくそこに何があるのかということを確かめたくなった。そんなことを思うのは目が悪くなってから初めてのことだった。リュックから眼鏡を出して掛ける。彼女は僕の頬に自分の頬をくっつけて、そして手を重ねた。

 矯正が入ると急に人工的な光が強くなったように感じられて、思わず目を細めてしまった。頭に付いた雪を払いながら小走りで駅に向かうサラリーマン、幸せそうに手を繋ぐ恋人たちに、ヘッドフォンで音楽を聴きながら寒そうに手をコートのポケットに入れる青年。駅前には実に多くの、そしてさまざまな種類の人がいた。

「ほら、こんなに美しいの」

 イルミネーションで飾られた駅前の光は雪のせいもあってか今まで見たどんなものよりも綺麗に感じられた。

「ほら、こんなに美しい」

 自然と出た言葉に気がつくことができなかった。それほどまでに、僕はその光景に見惚れていた。

「逆に私は少し疲れたかな」

 彼女は目に入っていたコンタクトレンズを両眼とも外してしまうと、僕の腕をしっかり掴んだ。

「帰ろっか。私、裸眼の視力全然ないから誘導してよね」

 僕たちがベンチを立った時、すでに雪は降りやんでいた。結局、僕が彼女を家まで送り届けるまで彼女は持っていたであろう眼鏡を掛けなかった。道中、彼女は眼鏡を人前で掛けるのが極端に嫌いだと打ち明けた。その理由について訪ねても、特につかみどころのない返事が返ってくるだけだった。

「君に眼鏡を掛けない理由があるように、私にも眼鏡を掛けたくない理由があるのよ。それはあり得ないほど似合わないからかもしれないし、幽霊が見えるようになってしまうからかもしれない。でも、みんな同じじゃつまらないでしょ? 誰かが言っていたわ。全員が白人じゃ退屈でしょって。そういうことだってあるのよ」

 

 彼女がトラックに轢かれて死んでしまったのはそれからちょうど一年くらいが経った時のことだった。彼女の目がその時裸眼であったのか矯正されていたのかを僕は知らない。別にそのことを警察に聞こうとも思わなかったし、それを知ってどうなるんだという思いが強かった。

 

「ようやく決意が固まりました。僕はもう逃げませんよ」

 そう言い残して僕は墓地を後にした。

 自分の車に乗る前にコンタクト用の目薬を両目に点そうと思って上を見上げると、今年最初の雪が天からゆっくりと降りてくるところだった。彼女からの贈り物としての雪。それも悪くない。